HOME > エッセイ・庭を考える > 「作庭私論・ふるさと秋田の庭をつくる〜5」
さて最後に、私はこれからどこに向かうべきなのかとあらためて考えてみますと、わたしの目指す所は、やはり秋田であり、田舎であり、ふるさとです。
秋田は他県に比べ庭の歴史が浅いように感じていますが、これは、自然が豊かな秋田では野山自体が庭なので、おおらかで酒好きな秋田人には庭が要らなかったということなのかもしれません。
それでも、こんなのどかな秋田でも、開発が進み、生活も多様化し、都会人と変わらぬ忙しい日々を送る方も増えてきました。今の若い方々には日本庭園という意識も無いようですし、定年後に都会からふるさとに戻られる方も増え、庭に癒しや自然、雰囲気を求められる方も多くなってきたようです。
日本庭園は日本の伝統文化で素晴らしいものですが、それがそのまま秋田の文化、能代の文化かといえば、そうではないと感じています。
京都や東京の庭の文化、ましてやイギリスの庭などをそのまま地方に持ち込んでも、気候も文化も違う土地に馴染めるかといえば疑問です。
イングリッシュガーデンは、庭の形式美よりも、いかにその土地やその家に適した庭をつくるかということに心を砕くという話を聞いたことがあります。
これは、根本的には露地などの日本の庭の考え方と同じではないかと思いますので、庭に和洋の垣根は無いのではないかと感じています。
「和」も「洋」も無く、あるのは「調和」や「和み」、「用」と「要」でいいのではないかと。
田舎には田舎のよさがあり、秋田には秋田のよさがあります。
流行りだからと形だけを真似した中身の無い庭をつくるのではなく、田舎は田舎らしく、秋田は秋田らしく、時代や人の暮らしに即した庭、田舎の文化や景色を考えた庭をつくっていきたいです。
そこに相応しい庭であるならば、あまり形にとらわれる必要もないように感じています。
落ち葉が落ちるがままの庭があってもいいし、草だらけの庭、つくった後で自然に生えてきた野草を活かす庭があってもいいと思うのです。
今の私は、どこにでもある身近なもので、何か心の休まる庭をつくることに喜びを感じます。洗練された庭の繊細な美しさより、田んぼの畦に生えるスミレやフキなどの、雑然とした田舎の風景に魅力を感じるのです。
作ったものから方言が聞こえてきそうな素朴な景色、土地の民謡や童謡が聞こえてきそうな庭、秋田弁でなければ説明できないような、そんな雰囲気の庭をつくれたら嬉しいです。
浅い庭を作ると、すぐ飽きがきます。秋田だけに、「もう飽きた!」なんて言われないように、見飽きのこない、時とともに味わいの深まる庭をつくっていければと思います。
本当にそこに必要なものを見つけることに意を尽くし、華美にならず、過美にならない、気取りの無い「ふるさと秋田」の庭を追求していきたいと思っています。
(福岡 徹)