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作庭私論・ふるさと秋田の庭をつくる

私の暮らす秋田では、年の三分の一は雪に覆われています。
雪かきや雪下ろしは日課、吹雪も毎日のことですが、生まれた時から慣れているとはいえ、いくら雪かきしても減らない雪を見ていると、本当に春はやって来るのだろうかと気が遠くなることもしばしばです。
雪は我々植木屋から仕事を奪い、庭づくりにも様々な制約をもたらします。雪が無かったらどんなに暮らしやすくて庭をつくるのも楽だろうと思いますが、これが雪国の植木屋の宿命で変えることのできない現実、嫌でも受け入れるしかありません。

しかし、物は考え様で、雪は植木屋から仕事を奪うのではなく、自分の仕事を見つめ直し、より質の高い仕事をするための勉強の時間を与えてくれているのだと思えば、仕事に対する意欲も違ってきます。
仕事ができない期間が庭への思いを募らせ、日々の仕事への感謝の念を高めてくれていることを思うと、雪もまた有り難いものです。雪の制約があるからこそ創意工夫が生まれ、雪国特有の庭の面白さも表現できるのですから、何事も、現実を受け入れ、前向きに立ち向かうことから物事が変わっていくように感じています。この雪深い秋田に生まれたことに感謝し、この地で仕事ができることを心から喜びたいと思うこの頃です。

この世界に入って今年で二十二年になりますが、田舎にいると、道具も技術も、わからないことばかりです。
延段や石積は好きでよくやりますが、恥ずかしいことに、私が目地鏝の存在を知ったのはつい最近で、一昨年、京都の道具屋さんで見たのが初めてでした。
それまでは、竹を削ってみたり、釘やカスガイ、ドライバーなどを焼いたりして作った物を使っていました。代用として使っていたのではなく、本当に、目地鏝自体の存在を知らなかったのです。地鏝もしかり、現場で実際に使ってみて、「こんなに重宝な道具があったのか!」と、目から鱗が落ちる思いでした。
こちらには庭の材料屋さんも専門の道具屋さんもありませんので、石張りに限らず、庭づくりのすべてがこんな調子です。素材や工法などもほとんどが手探りの自己流ですので、これでいいのかどうかもわかりませんが、こんな私でも庭づくりを任せてくれる方がいることを、心から有り難く思っています。

修行と言えるのかどうか、東京で三年間、世田谷の井本寅吉(井本造園)という師匠につきました。もともと手先が不器用でしたので、見習い時代は与えられた仕事すら満足にできていなかったように思います。
親方から教わったことで心に残っているのは、「松は松らしく、紅葉は紅葉らしく・・・」という言葉でしょうか。
当時すでに八十代だった親方は、次代に自分の技術を残したいと思っていたのでしょう。右も左もわからない見習いに「何かわからないことはないか?」とよく話しかけてくれました。
何を訊いたらいいのかさえわからなかった私ですが、その時ちょうど松の手入れをしていましたので「松はどういうふうに切ればいいのですか?」と訊いたところ、親方から返ってきた答えは、
「松は松らしく切れ!」。
あまりに当たり前すぎて、サッパリわかりませんでした(笑)。「他にないのか?」と言われて、「では紅葉は?」と訊けば、
「紅葉は紅葉らしく!」。 →続きへ

 

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