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作庭私論・ふるさと秋田の庭をつくる〜2

残念ながら、その言葉の真意がわからないままに帰郷の時期を迎えてしまいましたが、その後の数年間はその言葉の意味を探すことに費やしたようなものです。
後に、その時のことを親方に訊くことができたのですが、「『紅葉は紅葉らしく』ということは、その木に合うように、その庭に合うように手を入れてあげること。素材を知り、庭を知り、自然を知り、素材を活かす庭をつくること。ということでしょうか?」と申し上げると、
「そうだ。自然には法があるんだ。」
という有り難いお言葉をいただきました。
「自然の法って、いったいどういうことだろう?」七年掛かりでようやく答えを見つけたところに、また新たな宿題です。今度はこの言葉が頭から離れなくなりました。

この時、親方からは「自分を信頼して任せてくれるお客さんとはそう出会えるものではない。もしそんな有り難い人と出会えたら、手間も要らないと思って頑張れ!」と言われました。当時、少しずつですが庭づくりを任せていただけるようになり、思いを伝える難しさを感じていた時期でしたので、とても身に染みた言葉です。
修行を表す言葉に「守・破・離」という教えがありますが、親方の庭の真髄は深すぎて、とても「守」と言えるほどの技術も身に付けられませんでしたが、この心意気だけは、今も守るようにしています。

帰郷してからの私の一貫したテーマは、「土地の気候風土に適した雪に強い庭をつくる」というものでした。雪吊りや雪囲いは雪害から庭を守るもので、冬の庭の風情の一つでもあるのですが、私は逆に、雪から守らなくてもいいような強い庭をつくることはできないだろうかと、そんなことを考えていました。
耐寒性の無い暖地の木や雪の溜まる仕立て木を植えなければ囲いや吊りは不要なはずだ。落雪や除雪の影響を受ける場所に木を植えなければ、手間の掛かる頑丈な囲いも要らない。雪が自然に落ちるように枝を透かせば雪吊りも不要。施主に管理費の負担を強いる庭の作り方は、本当に施主のことを考えた庭だろうか。などと、日々の仕事からそのような矛盾を感じていましたので、いつか雪に逆らわない、雪を受け入れるような庭をつくってみたいと思うようになりました。

こんなことを考えるようになったのも、二十代の頃、奥入瀬渓谷に出かけた際、渓流に傾きながら枝を伸ばす一本のカエデを見てからです。ポッポッと、絶妙なバランスで葉を付けるカエデの美しさに感動し、「この木はいったい誰が鋏を入れたんだろう/?」と思ってしまったことがありました。
誰が手を入れたかといえば、それは自然の神様ということになるのですが、見渡せば、そこにある草木や石、水、空気の全てがみな美しいものばかりでした。
人間がこの自然界の美しさに魅かれ、庭にそんな景色を取り入れるようになったことも忘れて、思わずそんなことを思ってしまった私です。

山の木は、誰も手を入れてくれないのになぜこんなに美しいのだろう。山の木は山の中にあるから美しい。在るべき所で在るべき姿でいることが一番自然で、それが自然界の当たり前。
当たり前でいることのさりげなさが一番美しい。山の木は、庭にあっても山にあるようにということか?
そう思った時、親方の教えである「紅葉は紅葉らしく」の答えが見つかった気がしたのですが、それと同時に、山の木は剪定ばかりでなく雪囲いもしていないということにも気付きました。
奥入瀬は、私の住む能代よりもはるかに雪深い所です。山の木は、なぜこのような厳しい条件の中で美しくいられるのか、この奥入瀬の一本のカエデを見て、そんな自然界の植生を取り入れた庭づくりが出来たら、雪に強い本質的な庭が出来るのではないかと思いました。
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