二十代の頃、旅の途中で見た庭に衝撃を受けたことがあります。渓谷にあったその家は、かつては川だったのでしょう。樹林を巡る飛石は敷地から出土したもので、それが露地の伝いとなっていたのです。森の中に建つ家に森の自生種を植え、庭の土から出た石で道をつくる。その地その家の素材でつくる庭は、まさに「土着の庭」です。材料は問屋から仕入れるものだと思っていた私の常識や作庭観は、この庭との出会いで見事に覆されました。
「近くの山の木で家をつくる」という建築の考え方がありますが、私はそれをもっと進めて、「樹木や石も近くのものを使えば、自ずと家・庭は調和する。素材によって周囲と繋がる景観は土地の風土にも適い、『庭屋一如』を越えた存在になる。」と考えています。
そんな自論に行き着いて思ったのは、昔はそれが当たり前だったということ。今は、地方にいても世界中の素材が手に入る時代です。それでも私には、隣の芝生より地域の芝生の方が青く輝いて見える。田舎では、土地の暮らしは土地の物でまかなうのが基本。飛石や敷石も地産地消で行い、それを、秋田ならではの「地産地創」の域に高めていければと思っています。
庭づくりをする前は、作庭地周辺の山や庭にどんな木や石があるのかを調べています。それが最寄りの石山を探す手掛かりになるからです。時には、道路工事をしている人に砕石の在処を聞いたりしますが、そうやって見つけた採石場には庭石用に寄せている石など全く無く、時々、「そんな石何に使うんだ?」と不思議がられることもあります。でも、この「そんな石」は「磨けば光る原石」。それを現場で宝石に高めていくことに大きな魅力を感じます。
県内には土地ならではの名も無き石がたくさんあり、出会った素材の数ほど庭づくりの引き出しが増えていきます。それは秋田の庭の可能性を広げることでもあり、素材探しには十分な時間を掛けたいと思っています。
山の中には大小の岩や低い岩盤があり、時には岩盤が砕けて砂利道のようになっている所もあります。当たり前のことですが、岩も岩盤も砕けた砂利も、形状や硬軟の違いこそあれ、同じ山にあれば同じ石質です。自然風の庭をつくる時にはやはり自然界のあり様に習いたいと、石組も石積も石の道も砂利も、なるべく同質の石で揃えるようにしています。
時には、多少凹凸のある大きな石を使い、それこそ、山の岩盤のような風情で組んでいくこともあります。日本庭園の常道からは外れているかもしれませんが、ここは秋田で、私は秋田の風景をつくっている。それならば、田舎の匂いのする道でいいじゃないかと、そんな石の道を目指しています。
その地その家の石で庭をつくりますが、どちらを優先するかといえば、もちろんその家の石。藏から昔の漬物石や碾臼、藁打石等が出てきたり、現場の土から石が出て来たり、どちらもその家の歴史であり財産。お金を出しても買えない『掘り出し物』です。せっかく出てきたものを使わなければもったいないではないですか。物を捨てずに活かすのは「見立ての心」で、古き良き日本の心。家の物を大事にするのはその家への敬意であり、ある意味、庭の完成度よりも大切なことです。
秋田の庭を追求する私ですが、この考えはどの地に行っても応用できます。山形県で作庭させていただいた時などは、鳥海山系の川石と山寺などに見られる凝灰岩を搬入したところ、川の近くにあった敷地からは石が湧き出し、改築中の家からも柱の束石が出てきました。臨機応変こそが庭づくりの醍醐味であり庭師の本分。数十年の間、まさに縁の下の力持ちとして家を支えてきた石たちを露地の要所に打ち、庭を歩むことで家の歩みも感じられるようにしました。
思いのこもった物は、どんなに高価な名石より価値があります。人の心を打つのは、石の美よりも石を大切にする思い。それが日本の心だと思っています。
『秋田の流儀、私の流儀-福岡 徹』 豊藏均著「敷石と飛石の極意」より 2018年講談社刊