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「ケヤキの葉っぱ」

夏祭りの先陣を切り、今年も富根地区の祭典が行われました。
奉納の踊りで町内を練り歩いた後、愛宕神社に辿り着いた時のことです。
「あー、木の下って涼しいなー!」と、あちこちからそんな声が聞こえてきました。
皆さん、この暑い中一生懸命踊り歩いていたので、皆が皆木の下に腰掛けてこう言っていました。
のどがカラカラに乾いた時に水を飲んだ時のような、トイレを探していた時にトイレを見つけた時のような、そんなありがたい気持ち、人間の本能的な、生きるための欲求が満たされた時のような、心の底から染み出てきたような声に聞こえました。
見上げれば、頭上には青空に向かって伸び伸びと枝を広げるケヤキの大木があります。
まるで、この大木の緑の枝葉が地球の大気圏のように私達を包み込んでいるように感じ、この神社の森が小さな地球に見えてしまった私です。

 

神社のケヤキ
伸び伸びと枝葉を伸ばす神社のケヤキ

 

真夏に木陰に入ると涼しいのは、樹木が葉の蒸散作用によって自然のエアコンの働きをするからですが、神社やお寺には必ずといっていいほどイチョウやケヤキ、スギなどの大木がありますね。
大木の姿を見ると、それだけで何百年という時の流れを感じてありがたい気持ちになりますが、木には神様が宿ると言われる様に、大木のそばにいると本当に敬虔な気持ちになります。
昔の人は、木にそんな力があることを知って、木を植えたのかもしれません。
「病いは気から」と言うように、病気はストレスが遠因とも言われていますが、樹木の中にいると人間本来の治癒能力も活性化するそうです。
人間がまだヒトだった頃、ヒトは森の中で快適に暮らす森の住人でした。
人が森に入ると気分が良くなったり、身近な庭に木を植えたくなったりするのは、そんな森の住人だった頃の遺伝子が残っているからだという話を聞いたことがあります。
大木の懐に抱かれていると、母親に抱かれて安らかに眠る子供のように、なぜか懐かしいような、絶対的な安心感に包まれているように感じます。
森は人間の母親で「ふるさと」そのものなのかもしれません。
緑の中にいると穏やかな気持ちになるのは、そんなことからなのかもしれませんね。

 

ケヤキの木

 

最近保育園の年長さんになった長女からこんなことを訊かれました。
「お父さん、どうしてケヤキには葉っぱが付いているの?」
植木屋の子だからといって子供のうちから木に興味があるわけではありませんが(笑)、この冬、二ツ井の保育園への送迎で毎日のようにケヤキの街路樹の前を通っているうち、ケヤキの名前を覚えてしまいました。
ケヤキはホウキをひっくり返したような特徴的な樹形をしているので覚えやすいのですが、葉の無い状態でケヤキを覚えたので、春に葉が出てくるという現象がとても不思議だったようです。

そのときの問答です。
私「人は空気を吸って生きているんだよ。」
長女「うん、知ってるよ!」
私「そうか、エライな。空気の中には酸素というのが含まれていて、ケヤキの葉っぱは、みんなのためにその酸素を作ってくれてるんだよ。」
長女「ヘぇー、ケヤキってエライんだね。」
でした。
そう、ケヤキを始め、木はエライのです(笑)。
そんなエライ木たちですが、悲しいことに、日本全国の街路樹などは、伸び伸びと枝を伸ばせず、木陰も作れないような姿にされて、ただブツブツと切られています。
それは私たちの住む能代市も例外ではありません。
なぜそんなふうに切られてしまうのかというと、たいていは住民による落葉の苦情です。
木も生きていますから、木があれば葉が落ちるのは当たり前のこと、人は木に花が咲けば喜び、夏には知らずに木陰に涼しさを求めますが、有難さもその時だけというのでは、なんとも木がかわいそうです。

昨秋、道路に落ちた愛宕神社のケヤキの落葉を、当たり前のように履いているご近所のお父さんを見かけました。
生まれた時から目の前にはこのケヤキの森があって、きっと子供の頃からの習慣なのでしょう。
きっとこのお父さんには、この樹木の自然の営みが、毎日の生活の中に浸み込んでいるのでしょうね。
神社の木はご神木です。
ご神木が落とす葉を迷惑だと思う人はいません。
緑豊かな所に住む人は心も豊かなのだと実感した出来事でした。
木は偉いのです。
木陰の涼しさを感じ、木が木らしく生きているこの富根に住んでいることを、とても嬉しく思った夏の日のこと。

それでは皆さん、楽しいお盆休みをお過ごしください。

公民館運営委員 福岡 徹

 


 

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