このエッセイは、2007年2月14日の地元紙、北羽新報の文化欄に掲載された記事です。私の住む能代市に、素晴らしい街路樹の景観を見つけた時のことを書きました。
今ある美しい景観はずっと残しながらも、人の都合で美しくなくしてしまったものにも目を向け、蘇らせることも大切です。
行間に込めた、そんな思いを感じていただけたら幸いです。
「残したい場所」
先月、日吉町の辺りを通りかかった時のことです。歩道の雪が解け、落葉掃除に精を出すご婦人を見かけて足を止めました。
この一角には、能代には珍しく、伸び伸びと枝を張らせるイチョウの街路樹がありましたが、ご婦人が掃いていたのはその落葉のようです。よく見ると、こちらのお宅にもお庭があります。
庭の木の葉も歩道に落ちるでしょうし、このイチョウの葉も庭の中に落ちていることでしょう。
「落葉の掃除は大変ですね。」と声を掛けると、「一枚掃くのも百枚掃くのも同じだがらね。」と明るく笑うご婦人。声を掛けたこちらの方が気持ち良くなりました。
ご近所の方々と言葉を交わしては、またせっせとホウキを動かすこのご婦人の姿に、昔ながらの能代の良さを見た思いがして、ほのぼのとしたものです。
きっと、このご婦人にとっては、落葉の掃除は当たり前のことなのでしょう。樹木と共に暮らすこと、人と自然が共生するということは、芽が吹いて花が咲き、実が成って葉が落ちるという、樹木の自然な営みをそのまま受け入れることではないかと思います。雪かきも落葉掃除もお互いさまの心が大切だと思いますが、このご婦人には、そんなことが染み付いているように思いました。
自分の暮らす街を自分の庭だと思えば、どちらの落葉を掃くのも当たり前ということになります。掃除に精を出すご婦人の姿から、そんなことを思った私です。
日々の生活の中で、そんな心の余裕を持っていれば、街も自分もとても気持ちよく、心も豊かになりますね。「病いは気から」と言うように、病気はストレスが遠因とも言われていますが、樹木の中にいると人間本来の治癒能力も活性化するそうです。
人間がまだヒトだった頃、ヒトは森の中で快適に暮らす森の住人でした。人が森に入ると気分が良くなったり、身近な庭に木を植えたくなったりするのは、そんな森の住人だった頃の遺伝子が残っているからだという話を聞いたことがあります。
緑の豊かな所に住む人は心も豊かなようです。気持ち良さ、心の余裕、こんなところにも、緑のもたらす効果というものがあるのではないかと思いました。
街並と調和する自然樹形のイチョウ
この一角の街路樹は、とても素晴らしい樹形をしています。イチョウがイチョウらしい姿で枝を伸ばしているのです。
残念ながら、周りのイチョウやプラタナスはブツブツと切られて木の姿をしていませんでしたので、よけいにこの街並の素晴らしさが引き立ちます。
木が木らしく、気持ち良く枝を伸ばす街路樹は、街に素晴らしい景観を作ります。この場所は、樹木と街が一体となっているような、街と家と樹木と人の暮らしが溶け込んでいるような、そんな美しい光景でした。
街路樹が、街並の景観や夏の緑陰を作るために植えられていることを思うと、このイチョウ達は、街路樹本来の効用効果を最大限に発揮しているのではないかと思います。(イチョウには防火樹としての効果もあります。市内にイチョウが多いのは、何度も大火に見舞われたことが起因しているようです)。
真夏に木陰に入ると涼しいのは、樹木が葉の蒸散作用によって自然のエアコンの働きをするからです。広く枝を張らせて木陰を作ることは、アスファルトの熱も緩和させますから、歩行者やドライバーの通行の助けにもなりますし、地球温暖化の抑止にもなります。柔らかな枝先の樹木はそよ風も呼びますね。
夏にこの木陰の道を歩けば、米代川から吹く涼風とともに、とても心地良い時間を過ごせるのではないでしょうか。街路樹にはそんな実用的な効果もありますが、この街の一角は、あのケヤキ公園と並ぶ、能代が誇るべき景観ではないかと思います。
全国各地では今、紅葉を見ることもなく、落葉対策のためだけに、葉の落ちる前にすべて枝を切り取ってしまう所もあります。庭園文化の根付く、歴史と文化の街であるあの京都でさえ、一部ではそんなことが行われていると聞きますから、世界遺産白神山地の里であるこの能代が、このような、白神にふさわしい景色を街に残していることは素晴らしいことです。そこに住まわれている方々のご理解と併せて、ふるさとの誇りではないかと思いました。
「山水に得失なし、得失は人の心にあり。」多くの名庭を生み出した鎌倉、室町時代の僧、夢窓疎石の言葉です。
「得失」を「美」と置き換えると解かりやすいと思うのですが、美は自然の中にあるのではなく、それを美と思える人の心の中にあるという意味です。
渓流や滝などの豪快な自然の造形や、太古から続く原生林のブナの姿には目を奪われるほどの美しさがあります。一方、道端や田んぼの畦に咲く野の花、アスファルトに落ちるイチョウの葉などの何気ない自然にも心を留め、美しさや愛しさを感じられる優しい方もおります。
白神のブナも街路樹も同じ木、樹木の自然な姿や営みは、それ自体が森の役目をしますから、この一本のイチョウから白神の自然の恩恵を感じることも出来ます。秋田は「木では無い」と書くブナの森が世界遺産になっているほどの所ですから、何気ない自然を美と感じる優しい心を持つ方々がたくさんいるという証拠です。
このご婦人の木や街を愛でる姿に、こんな言葉を思い出した私です。
「景観10年、風景百年、風土千年」というそうです。
人が作るものは、長い年月をかけて自然と同化していくということではないかと思います。
私達の住む街には、このような美しい景観がたくさんあります。
いつか能代の風景、風土になるように、あの白神山地と繋がる景観であるためにも、ずっと残していきたいですね。
能代市二ツ井町 福岡 徹