HOME > エッセイ・庭を考える > 「絵の力と自由な創造」
自分は、足袋を履いて庭の土を踏みしめることに、たまらない喜びと誇りを持っている。
冬場、雪で足袋を履けない期間が長いせいか、ことの外、そんな思いは強い。
安物の足袋ではあるけれど、紺の足袋に足を通し手甲を付けた時は、柔道で黒帯を締めたときのような心地良い緊張感がある。なったことはないが、自分が仮面ライダーかウルトラマンにでも変身したかのように思うほど、ワクワクした気持ち良さもある。
それだけ、足袋は植木屋の醍醐味の一つで、作庭者にとっての証だと思っているところもある。そんなせいか、革靴やスニーカーで土の上に立つ監督さんや設計者の人を見ると、なんとなく違和感を感じてしまう。それでは、これから創る庭の土や木の感触を、足の裏でじかに感じることが出来ないのではないかと思ってしまうのだ。
柔道家や相撲取りが畳や土俵に素足で上がるように、野球選手がグランドにスパイクシューズで入るように、庭には庭にふさわしい履物があるのではないかと思うのだ。
幸か不幸か、足袋こそが庭師が戦う姿で、神聖な庭に入るための履物なのだと、いつのころからかそう思うようになっていた。見習いの頃、初めて足袋を履いた時の恥ずかしさが嘘のようだ(笑)。
職人でもスポーツ選手でも同じなのだが、「解る」ということは理屈ではないと思う。
頭で解って体で表現できて(形に表せて)初めて「解る」ということで、自ら思い描いたイメージを自らの手で作り出すことが出来なければ、モノづくりをする者として生きる価値はないと思っていた。親方になって指示、指導する立場に立った時、弟子に見本を見せられないようでは情けない。自分で何も出来ないくせに、時々来て、ただ職人を怒っていくだけの設計者や監督を見ると、おかしくてしょうがなかった。
庭が生き物だということを忘れて、作る庭の環境、素材の適応力や成長を無視して、見た目のデザインだけで、どこにでもあるものを安易に作ってしまう、そんな設計者に会う度、腹が立っていた。県内には、設計のみを生業とする業者はまだそんなにいないと思うが、そんな数少ない中でも、なぜかそんな人と会う機会が多かったせいか、役所の仕事やガーデニングが大嫌いになってしまった(笑)。
そんなことがトラウマとなって、いつのまにか「足袋を履かない人=設計者=現場を知らない」になって、自分の中で偏見になっていったらしい。
これは今でもそうなのだが、図面と一寸たがわぬモノが出来なければ、図面でお金をいただく価値はないのではないかと思っている。
それだけ、設計には重みと責任があると思うからで、図面でお金をいただきながら、現場で変わる、と言うのは逃げ道なのではないかと思っていた。
「自然素材は不整形だから図面と同じモノにはならない。」と言うなら、イメージに合う素材を確認してから図面を書けばいいわけで、完成形を予測できない自身の創造力の欠如を棚に上げているのではないか、と思っていた。こんなふうに思うのも、人がどうこうではなくて、自分自身が、そんな自身の未熟を感じていたからで、そんなわけだから、いくら設計に手間隙かけても図面代は頂けなかった。自分の庭づくりは、現場でドンドン変わるからだ。
変わることが楽しくて、現場で閃く自由な創作心こそがいい庭になる条件だとさえ思うので、絶対図面通りにいくことはない。
だから、現場では図面を見ないし、持ち込まない。
図面と違うモノを作ったら、その図面には意味がない。
だから、設計でお金をいただくことはできない。これが私のこだわりでもある。
そんなへそ曲がりな自分が、ある日偶然出会った一枚の設計図面を見て、コロッと変ってしまった(笑)。
それは図面というよりは絵で、ある女性の設計士さんが描いたものだった。
なんとなく眺めているうちに、「あ、この庭、オレが作ってみたい。」と、自然にそんな気持ちが湧き上がってきた。
今までに経験したことのない不思議な感覚だった。
自分が考えた庭ではないのに、なぜか心が揺さぶられて、自分の中の創作意欲をくすぐった。
気が付いたら、頭が勝手に絵の中の石や木を、自分の思う素材に置き換えて考えていた。
いい絵には、そんな心を揺さぶる力があるんだと初めて思った。
人が考えたイメージを、自分が創りたいと思ったのは初めてのことだった。
この場合の私(施工者)の創作意欲は、施主にとっての夢にあたるのではないだろうか。
施主の夢と作庭者の創作意欲を掻き立てる絵。
こんな絵を見ていたら、現実ばなれした、実用性を無視したデザイン重視の図面には辟易していた自分だが、自由な創作を楽しむことこそが本来の庭づくりで、創る前から、その庭の可能性を閉じ込めているのは自分の方ではないのかと思えてきた。
我々施工者は、現場での固定観念に凝り固まり、庭づくりの既成概念に縛られて、自由で楽しい創造という、庭本来の創る楽しさを忘れ、芸術的な感性を持って既成の殻を打ち破ろうとすることに億劫になりがちだ。
露地は茶事に使えなければ意味が無いが、一般家庭の庭は、もっと自由であってもいい。
庭にはどんな形があってもいいのではないか、そんなふうに思えてきた。
叩き上げの職人ほど頭が硬くて、自分の中に無いことは受け入れづらい。
自分の技術と庭の固定観念に安心して、挑戦する意欲を無くしてしまう。
始めからこの道に染まった「こうでなければならない」という人より、芸術的な感性と好きな気持ちが先立つ人の方が、純粋なのではないかと思う。
私の憧れの露地作家に、茶の世界から庭の世界に入られた方がいる。
植木屋が、露地を作るのに仕方なく茶を習い始めるのではなくて、純粋にお茶が好きで、露地を作る仕事に就かれた方。この設計士さんの絵を見て、この方と共通する純粋さを感じた。
日本には、そんな純粋な方はまだまだたくさんいると思う。
先日、ネット検索していたら、ふるさとの素材を活かしながら自由な庭を創られる設計士さんを見つけた。
創られた庭を見て、その完成度の高さに目を奪われた。
上の方と同様、PCではなく、手書きで絵を描かれるので温かみがある。
驚くことに、庭の模型まで作ってしまうそうだ。
この設計士さんも女性の方。女性らしい繊細な感性と芸術感覚が溢れる自由な作風は、見ているこちらも楽しくなる。
施工を担当する職人さんのレベルの高さにも驚く。
デザイナーが資材を手配して現場管理を行い、工事は各工種ごとに分離発注するシステムは、効率的で無駄が無く、施主の負担の少ない、消費者の立場に立った理想的な施工形態でもある。
その分、デザイナーは、各職方と施主の間を取り持つ設計者の調整能力が問われることになるが、作られた庭の完成度から、施主や職方との温かな信頼関係が伝わってくる。
これはなかなか出来ないことだ。
お二人に共通しているのは、芸術的な下地があることや自由でとらわれない創造力、施工してくれる庭職人を心から信頼していること、施主との対話の中から創り上げていくこと、ふるさとの自然や人を愛していること・・・。
お会いしたことは無いが、多分お二人とも、ちょこっと現場に顔を出して進行だけ見て帰る設計者ではなく、現場の土や石に触れ、職人と一緒になって汗を流したり、一服の時間にはお茶を飲んで大笑いしたりしている光景が目に浮かぶ。
そんな、楽しくて明るい、庭が大好きな方々なのではないだろうか。
この方々の絵や庭を見ていると、そんなことまで思わせる。
世の中は広い。庭の世界は広い。
秋田にもこんな方がいるのだろうか。居るならいつか会いたい。
こんな設計士さんなら、いつか一緒に仕事してみたいと思う。
自分の中の設計者に対する悪いイメージを払拭してくれた、自分をこんな気持ちにさせてくれたお二人に感謝する。
庭の世界の可能性は、まだまだ広がる。
参考リンク
長野県松本市 「工房ジネン」さん
岐阜県美濃加茂市「こかげ設計」さん