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「職人観」

私の職人観

モノを作る人のことを職人と言います。
職人という言葉にはいろんな形容詞が付くもので、「あの人は本当に腕の良い職人だねぇ」なんて言われ方もしますし、「アイツはとんでもねえ(悪い)職人だな。」などという言い方も耳にします。
良いも悪いも職人ですが、同じ職人でも、巧みな技と心で優れたモノを作る職人のことは「匠」と呼ばれて、「優れた」とか「素晴らしい」などという形容詞しか付きません。
西洋でいう「マスター」のような、職人にとっては憧れの位、私達は庭職人ですから「庭匠」ということになるのでしょうか。
庭職人は、一般的には「植木屋さん」とか「庭師さん」と呼ばれます。
他にも、造園工、造園技能士、作庭者、造園家、作庭家、今流行りでは、ガーデン・デザイナー、ランドスケープ・アーキテクトなど様々です。
みな同じ植木を扱う仕事でも、扱うモノの規模や志、資格の違いで、自称他称問わず、いろんな言い方、呼ばれ方をします。
私はどちらかというと、人から職業を尋ねられた時は「植木屋です。」と答えながらも、お客さまから「庭師さん」と呼ばれると、とても嬉しいです。

 

 

植木屋の中の植木屋

大工さんの親方は棟梁と呼ばれますが、棟梁は家作りの設計から施工、職人の手配や段取りなどの全てを取り仕切る、大工の中の大工だと思います。
私は、庭師とは、この棟梁と同格の意味を持つ、植木屋の中の植木屋、庭作りの全てを取り仕切る植木屋の親方が庭師と呼ばれるんだろうなと思っています。
また、「庭師」という呼び名は、「美容師」とか「医師」などのように、一般的には単なる職業の名詞なのでしょうけど、「師」という言葉に「師匠」とか「先生」と言う意味があるように、庭師に「師」という言葉が付くのはそんな立派な人だからなのではないかと、そんなふうに考えたりもしています。
そう思うと、自分で自分を「師匠」と言うのはなんだかとても畏れ多くて、自分から「私は庭師です。」などと言えないでいる私です。

造園工とか左官工、配管工など、「〜工」と付く職人は、国の言い方で大きく分けると、「建設業」という枠で一くくりにされてしまうのですが、なんだかピンときません。
土を扱う本物の左官などは本当に芸術的な仕事をしますし、我々のように庭を作る作庭者も芸術的な感性は必要なので、公共工事や個人邸の仕事を問わず、素晴らしいモノを創る職人たちの仕事は、「建設業」ではなく、やはり「モノづくり」と呼ばれるべきで、そしてそれも、それに携わる職人の意識と志の問題なのではないかと思います。
その昔、大工は自ら山に木を植えて、切り出しから製材、加工、建て方まで、家づくりに関わることは、始めから最後まで全部やったと言います。
今はみな分業化されて、現場で家を建てる人だけが大工さんですが、植木屋は、畑で生産する人も、山から木を掘ってくる人も、剪定の仕事だけの人も、庭を作る人も、分業でやっている植木屋さんも一連のことを全て行う植木屋さんも、みな植木屋さんです。面白いですね。
植木屋という仕事はそれだけ幅が広くて、一般の方々から親しまれていると言うことなのだと思いますが、こだわる方は植木も自分で育てるし、石材も自分で加工するし、それをやることで素材に愛情が湧き、自分の作る庭に愛着がもてるんだと思います。

 

 

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職人の誇りと自覚

さて、また「〜工」という言い方に戻りますが、最近、新聞で飲酒運転や暴行事件を起こした人の職業を見ると「〜工」と付いているのを多く見かけます。
造園工は絶対数が少ないこともありますが(秋田県の場合です)、同じ職人として、とても悲しいことです。まだ若い見習いの方が多いように思いますが、自分の仕事に対する誇りや自覚などの心の修行が足りないのだと思います。
時々、指導する立場であるはずの「〜師」と付く職業の人でも悪いことをしている時がありますので、それも悲しいことです。
うちにも20〜30代の若い人が居ますが、彼らには「技と心、器量と技量が備わって初めて一人前の職人だ。」とか、「日本の伝統文化を継承する誇りを持ちなさい」などと、自分を棚にあげて言っています(笑)。
私の所で、若い人を採用する時の基準は6つあります。
仕事に対する興味や熱意を持っていることは当然のことですが
・挨拶をする
・素直に話を聞く
・履物を揃える
・身だしなみを整える(茶髪・飾り・無精ひげは禁止)
・ゴミはゴミ箱に捨てる
・現場禁煙
たったこれだけです。保育園や小学生の時に教えてもらったことを社会人になっても出来ていれば、それで採用が決まり! 後はこちらに仕事があれば、誰でも入れます(笑)。
でも、時々求人で職安に問い合わせると、今これをちゃんと出来る子はなかなかいないとのことで驚きます。
そんなに難しいことではなくて、当たり前のことを当たり前にしていればいいだけのこと、職人とは何なのか、「就職」と「修行」の区別がつかないんだそうです。
以前面接に来た子で、茶髪に無精ひげ、派手なシャツに半ズボン、サンダル履きという、最強の出で立ちで来た子がいました。ちゃんと求人票にこの採用基準を書いてたのになぜ?と思いましたが、彼が見てきたのは、就業時間と給料欄だけだったようです(笑)。
次に来た子はちゃんとスーツを着てきましたが、やる気はあるようでしたが髪は茶色、「うちの採用条件を見てこなかったの?」、と聞くと、「採用してくれれば髪を直してきます。」でした。ホントにうちに来たいのなら、初めから直してくればいいのにと思いました。
使う側から見れば、面接なんか作業服でもいいから、「今すぐ仕事出来ます!」というぐらいの意気込みを買いたいですから。

 

 

見習いって?

職安に求人の相談に行った時、「採用する側には採用者を『育てる』と言う責任がある。」と言われました。でもこれは、雇用側と雇用される側のお互いが「育てさせていただく」と「育てていただく」という謙虚な気持ちがあって初めて成立することです。形としてなにも仕事が出来ていないのに、
「働いた時間だけの給料はちゃんと支払いなさい。」
「勤務時間は週40時間を越えてはいけません。」
「ちゃんと休憩させなさい(「休憩」とは雇用者に拘束されない自由な時間のようです)。」
「時間外手当や休日手当てを出しなさい。」
とだけ言われても、うちのような零細、雨が降れば仕事にならない植木屋には、とても厳しい条件です。そんな中でもいい仕事をしていい職人を育てていかなければならない。
そんなこと出来るのでしょうか。貧乏植木屋がますます貧乏になるばかりです(笑)。
職安の方には、「職人の一服と一般の休憩とは訳が違う。」と言いました。一服は仕事の打ち合わせや勉強をする時間です。職人は、一生懸命やってもやらなくても5時まで会社にいれば給料をもらえる役人やサラリーマンとは違います。
給料とは、本来、出来た仕事に対しての対価としていただくものだと思っていますが、職人はモノを作るのが仕事ですから、形としてモノを作れて初めて仕事をしたことになります。私も見習い時代、何も仕事が出来ていないのにちゃんと給料をいただけて、とても申し訳ないと思っていました。
見習いは、読んで字の如く、見て習うのが仕事、お金をいただいて仕事を教えてもらえるのですから、大変有り難くも申し訳のない立場です(笑)。ですから、「給料」ではなく「小遣い」と思ったほうがいいかも知れません。親方がくれるお金は、道具を揃えたり、本を読んだり、庭や自然を見に行ったりとか、職人としての自分を向上させることに使うべきです。もちろん、職人は体が資本ですから、食費が一番ですが(笑)。

 

 

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夏子の酒

一生懸命な仕事がいい仕事だとは限らない。
とはよく言われる話で、これは、「コストと品質は同じではない」、「もらう給料とやった仕事の質は同じではない。」いうことでもあります。
私の好きな本に『夏子の酒』というコミックがありますが、その中である蔵元が、作った酒の価格設定について「コストではなく品質そのものに対する評価を反映した値段であるべきだ。」というようなことを言っていて驚きました。庭でも酒でも、コストに見合った料金設定をすると思いますが、いくら経費がかかっていても不味かったらどうにもならない。高い酒でマズいと言われたら最悪、値段以上に美味いと思わせれば職人冥利に尽きます。
この本は実話を元にした物語なので、世の中には凄い人がいるもんだな、これがモノづくりなんだなと、カルチャーショックを受けました。酒造りも庭作りも自然素材でモノを作るという点では同じです。この本にはモノづくりの魂や心意気があるなと、それ以来、私の所に来る若い人にも見せています。親方自身が字の多い本が苦手なせいもありますが、漫画だと入りやすいですからね(笑)。
今をときめく左官の狭土秀平さんなども、施主の「『要求に応える』のではなく『要求を超える』のがプロフェッショナルだ。』と、失敗だと思ったら、満足のいくまで何度でもやり直すそうです。こんな心意気や職人の誇り、私も大切にしたいです。

 

 

修行時代に覚えること

一生懸命な仕事がいい仕事だとは限らない。
この、一生懸命な仕事を良い仕事にするための根幹となるものを身につけるのが、修行時代なのではないかと思っています。資格を持っていても実力がなければどうにもならないのが職人の世界ですが、技術ばかりでもダメ。技術を生かすのは良心と誇りです。
私は、資格は仕事を取るためのものではなくて、そんな技術を適正に行使できるという証であるべきだと考えています。いくら国家資格を持っていても、いい大学を出て大きな造園会社に入っても、街路樹をブツ切りにしたり、木を傷める支柱を掛けていたりしたら何にもなりません。景観を作る植木屋が景観を壊し、木を傷めつける仕事をするのでは本末転倒です。そんな、物事の本質、事の善悪を学ぶのも、この期間なのではないかと思います。
そんなわけなので、うちに来る若い人たちには資格を取ることを勧めていません。職人は作ったものが全てです。資格は紙切れ、資格など無くても仕事は出来ますし、作ったモノより資格に信用を求めるようでは職人ではないからです。
技術よりも大切なもの、技術の前にあるもの、そんな事を身に付けるのが修行時代なのではないでしょうか。

 

 

職人の基本は、気遣いと恩返し

話が戻りますが、職人は、非常識で理不尽で無知で乱暴で酒飲みで煙草をポンポン捨てて・・・。悲しくなるのでこの辺で止めておきますが(笑)、世間様からはあまり良いイメージを持たれていないようです。
理不尽で非常識ということは、裏を返せば気遣いが不足しているということではないかと思いますが、私は、職人の基本は「気遣い」と「恩返し」ではないかと思っています。
時々、一服の時などにお施主さんからタバコを吸わないのかと訊かれることがあります。
若い人たちへの確認の意味もこめて、現場禁煙でやっていることを話すのですが、
現場禁煙なのは、
「くわえタバコは作業の効率も悪いし、熱い灰を植木や花に掛けることにもなるので、植木屋のすることではないこと。
庭を綺麗にするために仕事に来てるのに、その庭に煙草を捨てるのは本末転倒なこと。
それではと、見えない側溝や道路に捨てるのは、道路や側溝も我々と同じ職人が作ったものなので、それも言語道断。
またまたそれではと、道端や山や川に捨てるのも、我々植木屋にとって自然は先生で神様なので、師匠や神への冒涜になること。
一服中も禁煙なのは、灰皿のない所では煙草を吸ってはいけないこと。
灰皿の無い所で吸い始めて、お客さんによけいな気遣いをさせないこと。
催促するのは言語道断。
灰皿を使うと、自分で持ち込んだゴミをお客さんの家に置いていくことになること。
我々のお客さんは圧倒的に50代以降の方が多いので、病気をされている方も多い。そんな方の前で煙草を吸ってはいけないこと。
仕事もろくに出来ないくせに、偉そうに目上の人の前で煙草なんか吹かしている場合ではないこと。」
などなど、現場禁煙の理由はこんなにありますが、要は相手を思いやる気遣いと、自分の立場や自分の仕事をわきまえれば、自然とわかることですよね。
かくいう私ですが、もちろんお酒も煙草も大好きです(笑)。小さな子供や病弱な家族がいるので家では煙草を吸えないし、現場でも吸いません。だから、吸うのは移動中の車の中だけ、外で吸う時はマイ携帯灰皿、一日5本あれば足ります。職人になってから、体が自然とそうなりました。人間、慣れですね。馴れ合いや仕事の慣れはいけませんが、こんな慣れならいいと思います(笑)。

 

 

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職人世界のこと

若い人と話をしていて感じるのですが、職人世界はまだ徒弟制の残る世界なので、体育会などの上下関係を経験したことのない人にはピンと来ないようです。どうしたら職人の世界のことをわかってもらえるだろうと、同じ日本の伝統文化である大相撲の世界に例えて話すこともあります。
「大相撲の世界は社長と社員ではなく師匠と弟子。一人前(関取)になって初めて当たり前の給金がもらえる。力士には品格が必要だから、茶髪は居ないし耳輪を付けている人も居ない」と説明すると、少しはわかってくれるようです。
先ほども話しましたが、我々植木屋を頼む客層は、圧倒的に50代以降の方が多いので、飾りや染め髪などに対しても過敏な方がいます。礼儀作法に厳しい茶道や華道の先生なんかもおります。露地にキンキラキンの茶髪やジャラジャラした飾りは似合いません。
そんな格好で庭に入ったら、即刻出入り禁止になります。庭仕事にチャラチャラした飾りは邪魔で危険なだけですし、修行にオシャレは必要ありません。自分を飾ることより庭を飾るのが仕事ですから。
「チャラチャラした職人らしくない格好で心配したけど、仕事は上手ね。見直したわ。」と言われるのと、「やっぱり身だしなみのしっかりした職人さんは仕事も綺麗ね。」と言われるのと、ドチラがいいでしょうか。私は、後者を選んでしまう古臭い人間のようです(笑)。
年が若いせいで不安に思われるのはこれは仕方の無いことですが、身なりや態度でお客さんに不安感を与えるのは、違うのではないかと思います。一抹でもそんな不安感をお客さんに与えたら、職人として失格なのではないかと、そんなふうに思うのです。
「郷に入っては郷に従え」という言葉がありますが、相撲界は、もともと金髪のお相撲さんでも、黒く染め直して日本の伝統文化に合わせなければならないという厳しい世界です。日本人の私たちが、それと逆の事をしていたら恥ずかしいですもんね。今の日本人は、日本にいながら。古き良き日本の文化や心を忘れています。そんな文化や心を受け継ぐのが、私たち職人ではないかと思っています。

 

 

子供に恥ずかしくない職人

保育園児でもちゃんと出来ることを大人の職人が出来ないのは恥ずかしいことです。
家に帰れば子供に「ゴミを拾いなさい。」とか「靴を揃えなさい。」などと言っている大人が、自分でやらない。こんなことでは、子供に信用されませんね。
こんな大人が「今時の若いのは・・・」なんてことを言うのを聞くと、それは違うのではないかと思います。こんなことがナオザリにされているから、街並の街路樹なんかがブツ切りにされてしまうのではないかと思います。
皆さんは「リオの伝説のスピーチ」の話を聞いたことがあるでしょうか。1992年、ブラジルのリオデジャネイロで開かれた地球環境サミットで、12歳のカナダ人の少女が、世界の首相たちをぶん殴ったという有名な話です。読んでみて、私も頭をぶん殴られたような衝撃を受けました。私にも小さな子供が二人いますが、自分は子供たちにとって恥ずかしくない大人だろうかと胸に手を当てて考えてみると、恥ずかしくなることばかりが思い出されます。世界の自然が壊されていく今、職人として、大人として、子供に恥ずかしくない生き方をしなければと思いました。

私の住む秋田県能代市は、世界遺産白神山地を望む自然豊かな所です。
こんな所で生まれ育ち、暮らせる幸せを感じつつ、庭に限らず公私にかかわらず、自分の住む街や自然を大切に思う心を仕事にも生かし、自分の師匠から教えていただいた「モノづくりの心」を、次代を担う若い人達にも伝えていけたらなと、あらためて思う今日この頃です。

2007・6・21  福岡 徹

 

※このエッセイは、4年前のHP開設当初に書いた「職人観」を、その後の経験を織り交ぜながら修正したものです。こんな長い文を最後まで読んでいただいて、本当にありがとうございました。

 

 

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