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「つくりたい庭がない?」

2013/03/13

庭とは何ぞや?
植木屋は何のために庭をつくるのか?

 

時々、そんな問いに襲われることがあって、この間はそれが朝の起き抜けに突然やってきた。

 

自分はなぜ庭をつくるのか。
これからどんな庭をつくりたいのか。
そんなことを考えていて、あることに気づいた。

 

そういえば、最近、こんな庭をつくりたい!という、欲のようなものが無いな。
これまでいろんな庭をつくりたいと思ってきたけれど、今は特に、これをやりたいというものが思い浮かばない。
こんなことはいまだかつてなかったから、そんな自分にちょっと驚く。
作庭意欲が無くなったわけでもなく、技術への研究心もある。
植木屋として成長したいという向上心もある。
でも、これをつくりたいという気持ちがそんなに湧かない。
さて、どうしたことか。
ナマケモノになってしまったのか。
そんな自分がちょっと心配で、自問自答をしてみた。

 

 

当たり前のことだけれど、施主の家につくる庭で、植木屋が自分のつくりたい庭を好きなようにつくることはできない。
しかし、庭には創作性があり、作庭者にも創作心がある。
それは、施主の有る無し、仕事の有る無しにかかわらず、作庭のインスピレーションとして降りてくる。
イメージが湧けばそれを形にしたくなり、形にできる技術が無ければその技術を学び、研究する。
そして、それを実際につくってみたくなる。

 

しかし、現場ですぐ実現できる機会はかなり稀で、そんなイメージがスケッチの中で眠っていたり、頭の中でくすぶっていたりする。
そうした創作欲のやり場に困り、これまで、作庭展や試作の庭などで、自分がその時表現したいものをつくってきた。
誰のためでもなく、自分のため。
自分のために自分がつくる庭だから、これほど楽しいものはない。
こうした時は、我を忘れ、時間を忘れて没頭してしまう。

 

ただ、このような自分だけの表現の場を持てるようになったのは最近で、言い方は悪いが、若い頃は隙を見て現場でやっていた。
隙を見てというより、それが施主の庭にふさわしいものと思い込み、現場でつくらせていただいていた。
現場で勉強させていただけることをとてもありがたく思った。
それで喜んでいただいた場合もあるし、せっかくつくっても使われず、ただ汚れていくこともあった。
必要とされないことほど不幸なことはない。
施主の求めるものより、自分がつくりたい気持ちのほうが強かった。
今思えば、つくりたい思いが先に立ち、施主の気持ちに気づくための努力をしていなかった。

 

少し年を取り、そんな考えも変わってきた。
当たり前のことだけれど、植木屋は、自分で庭をつくることができない施主に成り代わり、そこに住む家族の夢を代弁するのが仕事だと思っている。
施主が暮らす庭は、植木屋の創作欲を満たす場ではない。
庭は、自分のインスピレーションでモノを創り、後から値段がつく芸術作品とは違う。
まずはじめに施主があり、施主の夢があり、敷地の条件や気候風土、予算がある。
その庭で暮らすのは施主で、植木屋ではない。
植木屋本位ではなく施主本位。
相手があるなら相手のことを考えなければならず、施主への気遣いを形にしたものが庭だと、今はそう思っている。

 

本当にそこに必要なものを考え、そこから湧き出すインスピレーションで庭をつくる。
気持ちを0にする。
よけいな欲や先入観を持たず、自然な状態で施主の話を聞く。
そんな中から、その庭で自分たちができることを考える。
施主にできることがあるなら、施主にやっていただく。
それが施主の望みであることもある。
完全には仕上げずに、最後の仕上げは時間と施主にお願いする。
植木屋は、できる所をやればいい、最近は、そんな風に思っている。

 

 

そうありたいと思っていたら、つくりたい欲が消えていた。
それで悩んでいるわけでもなく、自然とそんな心境になっていた。
不思議なもので、かえって気持ちが楽というか、こんな状態が心地よくもある。

 

先ごろ亡くなった大横綱の大鵬さんは、現役時代、相手に合わせて相撲を取ったことから、「大鵬には型が無い。」と言われたそうだ。
「型が無い」という表現はあまりいい意味には使われないが、言葉を換えれば変幻自在で、臨機応変に対処できるということ。
得意の型を持つことは強みになるが、それが通じない相手の時は何もできなくなる。
そうした大鵬さんの取り口は、「自然体」と評されたという。
型が無いのは自然体だから。

 

自然体。
日々のたゆまぬ稽古で対応力を付け、どんな相手にも柔軟に対処した大鵬さんの相撲は、植木屋の仕事にも通じる。
大横綱のようにはなれないかもしれないが、「自然体」の気持ちは大切だ。
これまで、俺はこれだ!という気持ちで仕事に臨んできたけれど、そんなベースを持ちながらも、柔軟な対応力は持っていたい。
自然体の気持ちで、日々の仕事に向き合っていたいと思う。

 

庭づくりは楽しい。
庭づくりほど面白いものはこの世にない。
だから植木屋になった。
しかし、その楽しさは施主のもので、植木屋はそこからおすそ分けをいただく。
どうしたら家族が庭で楽しく過ごせるか、そんなことのお手伝いをするのが自分の仕事。

 

植木屋がどうではなく、植木屋としての自分はそうありたい。
人が喜ぶことで自分も喜びたいと、そんなことに行き着いた自己問答でした。

 

おわり。

 


 

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