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「脚下照顧」

先日、ある方から興味深い記事を教えていただいた。
1992年にブラジルで開かれた地球環境サミットで、カナダ人の12歳の少女が、世界の首相たちを叱ったという、伝説のスピーチ

12歳の子供の言葉とは思えない迫力を感じた。
子供に恥ずかしくない大人でありたいと思う。

以前、異業種の青年団体に属していた頃、同じようなことを感じた。
青少年の育成事業として、子供達とお寺に泊まり、座禅を組んだり、近くの野山で遊んだり、お寺の生活や自然と親しむ中で、自然や故郷の有り難さ、礼節などを教える会があった。
禅寺の玄関などにはよく「脚下照顧」と言う言葉が張り紙してある。
本意は別の所にあるが、直訳すれば「足もとを見なさい。」だから、「履物を揃えなさい。」と言うことになる。
「履物を揃える」ということは「心を揃えること」だと、そちらの和尚さんに教えていただいた。
柔道や剣道などの武道系の格技でも、やはり道場に入る前は自らの履物を揃え、一礼してから入る。
茶道など、日本の芸道でも同じことだと思う。
お寺はもともと道場、禅は日本の武道や芸道にも影響を与えているから、言われてみて納得した。

礼節は、人への感謝の心を表す気遣いでもある。
これは、我々庭師の世界でも、修行の一環として師匠から厳しく教えられる。
庭づくりに自然素材は欠かせない。
木や石はどこにあるのか、どこから出してくるのか、切り取られた山や川は元に戻るのか。
大工、左官、板前など、自然素材を扱う多くの職人がそうであるように、我々庭師の仕事も、そんな自然破壊と隣り合わせの罪深い仕事だ。
そんな仕事だからこそ、自然に対して感謝の心を持ち、庭づくりの本質を理解することが必要となる。

職人も罪深いが、もともと人間は、命ある物を食べなければ生きていけない罪深い生き物だ。
和尚さんは、ご飯を食べる時に「いただきます」と言うのは、「自然の命に感謝して、有り難くいただくことだ。」と言っていた。
「有り難い」とは、「有るのが難しい」ということ。

子供に「靴を揃えなさい。」と言う大人が、会議や飲み会では自分の履物さえ揃えることが出来ない。
子供に「ゴミを拾いなさい。」と言う大人が、平気で街や山にタバコをポイ捨てし、「自然を守ろう!」と叫ぶ現実。
言動一致の姿を見せなければ、子供はすぐに見抜く。
子供は親の背を見て育つ。
本末転倒ではいけない。
何のために何をやるのか、本質をしっかりと見つめなければならない。

街並の街路樹も同じ。
役所の発注とはいえ、木を知る、木を生かす植木屋が木を木らしい姿でなくしている。
植木屋が、植木屋の誇りと良心を忘れたら終わりだ。
口先だけで[景観を作る]と言っても、言動一致で無ければ意味がない。
日本全国に環境宣言をする都市が増える中、なぜ日本の街並は良くならないのか。
良識ある大人が、責任ある行動をしなければダメだ。
それを変えていくのは、スーツを着た人たちではなく、我々足袋を履く職人ではないかと思っている。

「まちづくり」も「にわづくり」も「人づくり」から。
「人づくり」は「自分を作る」ことから始まる。
「庭づくりの職人」は「まちづくりの職人」でもあるべきだ。

この12歳の少女の話を聞いて、あらためてそんなことを思った。

 


 

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